見えなくても、確かにあるもの

ずっと言語化できずにくすぶり続けていた

痛みの、問いの、正体が、答えが

長い長い年月を経て少しずつ顔を現し始めます。

 

 

コミュニケーションを求められるほど、

言葉を、形を、態度や表情や行動を、

求められれば求められるほど

応えようとすればするほど

苦しくなっていく

離れていく

伝わらなくなっていく

通じ合えなくなっていく

 

 

言葉にしようとすれば 真意から離れ

形を保とうとすれば 嘘くさくなり。

 

目に見えるものだけが真実ではないのにと

心で叫びながらも

結局自分も

目に見えるもの 聞こえる言葉 形あるものだけに

とらわれ 従い 信じていたから

見えるものを要求する人たちと出合い

言葉が足りない、態度が足りない、

行動が足りない、それでは気持ちが伝わらない、

そこに心がないかのように

愛がないかのように

失望され信頼のないものとされてゆく

そしてまた自分もそうしてきたのでしょう。

 

それならば

なんの言葉もない 

態度も行動もない

形に乗せることもしない

コンタクトを取る手段さえない

それでも温かい心が、慈しむ想いが

いつも変わらずそこにあるような、

むしろ形や言葉にしようとした途端に

バランスを失い崩れてしまいそうな、

透明な、目に見えない、音にも聞こえない、

それでも確かにそこに存在するのを感じられる、

不確かだけど在ると信じられることこそ

よっぽど誠実なものなのではないかと。

 

もちろん、目に見えて分かりやすいもの、

形あるもの、言葉や行動も

心温まったり元気になれたり

嬉しく、楽しく、安心できる、

また交流を円滑に、心地よいものにしてくれる

必要で大切なものだけれど。

 

 

そこだけにはまらないものもあるということ。

 

 

やっと確信を持て、言語化し認識できたことで。

自分の感じていた感覚を信じ認めることができて。

 

心が今とても喜んでいるようです。